Masuk―――現代・日本―――
「ただいま〜」
小林由奈は玄関で靴を脱ぎながらため息をついた。
スーパーの買い物袋を抱えた手が重い。「……ん」
リビングからの返事は素っ気なかった。
夫の晃はスマホをいじったまま、顔も上げない。いつも「お疲れさま」由奈が声をかけても、「うん」という生返事だけ。
12年の結婚生活。
家族になった安心感と引き換えに、お互いの言葉は減った。 いつからこんな風になったのだろう。「ママ〜、宿題見て〜」
「はいはい、要。ちょっと待ってね」
由奈は買い物袋を置くと、息子の要の隣に座った。
算数のプリントを見ながら、機械的に説明していく。「ママ、なんか疲れてる?」
小学5年生の息子にまで心配されている。
情けない。「大丈夫よ。ママはいつも通り」
嘘だ。
大丈夫じゃない。 でも、こんなことで弱音を吐くなんて贅沢だ。夕食の準備、食事、後片付け、子供たちのお風呂。
全てを機械的にこなしてから、由奈はようやく自分の時間を手に入れた。「さて……」
スマートフォンを取り出し、小説アプリを開く。
これが由奈の唯一の楽しみだった。 現実逃避と言われても構わない。「あ、この作者さんの新作出たんだ」
『アルカディア王国戦記』
由奈のお気に入り作家の最新作だった。
この人の作品はいつも面白い。 主人公が苦悩しながらも成長していく過程が丁寧に描かれている。ただし——この作家は容赦ない。
主人公を徹底的に追い詰め、選択を間違えれば破滅する。 過去作の中には、救いのないバッドエンド作品もあった。 だからこそ、ハラハラしながら読んでしまう。「今回の主人公は、どんな話かな~」
由奈は第1話を開いた。
『第1話 暗殺された王の復讐』
「お、よくあるループものね。最近流行ってるし」
読み進めていくうちに、由奈の表情が変わった。
主人公の若き国王レオンハルト。
彼は確かに武勇に優れ、戦場では無敵だった。 しかし――「要点だけ言え。時間を無駄にするな」
外交官に対する王の発言を読んで、由奈は思わず声を出した。
「うっわ! その高圧な発言で炎上するやつ!」
さらに読み進む。
「従者の話は聞かん。俺が決める」
「愚民どもに説明する必要はない」 「時間の無駄だ」「この人……」
由奈の顔が青ざめた。
「うちの旦那とそっくりじゃない!」
晃も同じだった。
「結論だけ言え」
「俺は悪くない」 「いちいちそんな無駄な事を言ってくるな」自分や子どもに対しても、会話は業務連絡みたいで、笑顔の『ありがとう』なんてもう何年聞いていない。
「この王様、旦那の上位互換版じゃない……」
由奈は呟いた。
そして、続きを読んで戦慄した。小説の中では、前世の王は臣下たちから徐々に孤立していく。
最初は忠誠を誓っていた部下たちも、王の高圧的な態度に愛想を尽かしていった。「あー、これはだめだ。完全に人望失うパターン」
由奈は小説を読みながら、現実の夫の姿を重ね合わせていた。
晃も最近、会社で浮いているらしい。 同僚との関係がうまくいっていないと、数少ない愚痴の中で漏らしていた。 まさに、この王様そっくり。 社交スキルが壊滅的で、本人は気づかないタイプだ。「でも、この王様……なんで自分が原因ってわからないの?」
由奈は画面をスクロールしながら首をかしげた。
読者の視点からは明白だった。 王の破滅は、敵の陰謀でも裏切りでもない。 王自身の言動が招いた必然的な結果だ。(典型的な破滅フラグ量産型主人公じゃない。こういうの二章で粛清されるやつだよ? 作者さん、序盤から攻めるなぁ……)
画面をスクロールしながら、由奈の『小説オタク脳』が動き出す。
『政治で負けるキャラ』にありがちな要素を次々とチェックする自分に、ちょっと笑えてくる。「それにしても、もう少し言い方があるでしょうに……」
由奈は画面に向かって呟いた。
「せめて『ありがとう』くらい言えばいいのに。『すみません』とか『お疲れさま』とか。そんな基本的なことすら……」
その瞬間、スマホの画面が一瞬フラッシュした。
白い光が一拍遅れて視界に残り、背筋にゾワリと寒気が走ったと同時に耳鳴りのような声が頭を突き抜けた。(え、何? 今、何か……変だった?)
耳の奥で、さっき読んだ台詞が遅れて響いた気がした。
『無駄に長い挨拶はやめろ』
幻聴?
いや、そんな――「あれ?」
由奈は画面を確認したが、特に異常はない。
小説の続きが表示されている。『……申し訳ない。疲労で言葉が足りなかった。バルトーク公国との友好は我が国にとっても重要だ。改めてようこそいらした』
「ん~~~~?」
由奈は首をかしげた。
さっき読んだ時は、王はもっと高圧的だったはず。 外交官を怒らせて、険悪な雰囲気で話し合いが終わったような――「リアルタイム更新?」
最近の小説サイトは、作者がリアルタイムで内容を修正することがある。
誤字脱字の修正や、読者の反応を見ての微調整だ。「でも、こんなに内容変わる?」
由奈は不思議に思いながらも、続きを読み進めた。
しかし、頭の片隅では別のことを考えていた。(この王様……本当に旦那にそっくり。もしかして作者さん、うちの夫を見て書いた?)
由奈は苦笑いを浮かべた。
まさか、そんなわけはない。 でも、もしこの王様が現実にいたら、絶対に助言してあげたくなる。「『ちょっと待ってください』って言ってあげたい」
由奈は画面を見つめながら呟いた。
知らなかった。
その願いが、まもなく現実になることを。周囲は、最大の祝福に包まれていた。 最大の持ち上げ。 最大の賞賛。 民衆は歓喜し、神殿は勝利を宣言し、ここに居るすべての者が、レオンを讃えていた。 涙を流す者がいた。 手を取り合って喜ぶ者がいた。 地に伏して祈る者がいた。 広場を埋め尽くす民衆の顔は、まるで長く待ち望んだ救いが、ついに訪れたかのように、一様に輝いていた。「神に愛された王だ!」「この国は守られている!」「始まりの神が、我らと共におられる!」 声が、波のように押し寄せる。 その波は、広場から街へ、街から国、世界全体へと広がっていくだろう。 歴史に刻まれる瞬間。 人々が語り継ぐ奇跡の日。 すべてが、完璧に整っていた。 けれど。 レオンは、何も感じなかった。 あの温かい気配が、もう、どこにもない。(カヤ) 心の中で呼ぶ。 けれど、返事はない。(カヤ―—!) もう一度呼ぶ。 それでも、何も返ってこない。 いつもそこにあった『繋がり』が、完全に断たれている。 まるで自分の一部が、無理やり引き剥がされたような感覚だった。 心臓があるはずの場所に、冷たい空洞だけが残っている。 レオンは、ゆっくりと御像を見上げた。 その動作は、まるで糸の切れた人形のように、力が入っていなかった。 御像の胸が、静かに脈動している。 ドクン、ドクン、と。 規則正しく、穏やかに。 その脈動を見つめながら、レオンの唇がわずかに動いた。(返せ) レオンは心の中で、叫んだ。(返せ……!) その声は、誰にも届かなかった。 シグルが、スッと前に出た。 民衆の視線から、レオンの揺らぎを遮るように、静かに立つ。 その動作は、ごく自然で目立たない。『王の弱さを民衆の
御像の光が、最高潮に達した。 その光は、もはや神々しいとしか言いようがなかった。 広場全体を照らし、民衆の顔を白く染める。 民衆がざわめき、その光を見た者は思わず息を呑んだ。「像が……!」「光った……!」「これは……奇跡……!」 どよめきが、波のように広がっていく。 期待と驚き、それに圧倒されたような恐れ。 オズワルドが高壇から、歓喜を隠しもせず両手を天に掲げた。 その姿は、まるで神の代弁者のようだった。 ざわめきの上から被さるように、その声が広場全体を貫いた。「見よ! 奇跡が起きた!」 民衆が、一斉にオズワルドを見た。「我らが抱いた不安は、無意味ではなかった! 王の中に、『始まりの力』が宿っておられたのだ!」 民衆が、一瞬息を呑む。「御像が示したのは、創造神アーク・ディア=カヤ! この世界を創りし古き名が、我らが王を選ばれたのだ!」 沈黙――そして。「神が……!」「王様に神が……!」「始まりの神に選ばれた王……!」 波のように広がり、広場を、神殿を、そして街全体を揺るがすかのように歓声が爆発した。 涙を流す者、手を取り合う者、地に伏して祈る者、民衆は狂喜した。「神に愛された王だ!」「この国は守られている!」「始まりの神が、我らを見ている!」 オズワルドが、さらに声を張り上げる。「明らかになったのは、浄化の成否ではない! 王が清いか穢れているか、そのような些末なことではない!」 オズワルドは一度腕を下ろし、御像を指し示した。 たっぷりと間を取り、証人めいた顔で。「最高位である始まりの神が、王に宿っていたという事実である!」 民衆の歓声が、
―――神殿 祈りの広場――― 扉が開くと、熱が押し寄せた。 人、人、人。 広場を埋め尽くす民衆の群れ。 数百人、いや、それ以上であろう人の数。 老若男女が、柵の外から、窓から、屋根の上から、あらゆる場所から、広場の中央を見つめている。 視線が一斉にこちらへ向き、ざわめきが波のように膨らんだ。「王様だ……」「本当に来た……」「浄化されるのかな……」 期待と、疑念と、不安が混ざり合った声が空気を震わせる。 レオンは一歩、広場へと踏み出した。 朝日が、その背中を照らす。 広場の中央には、本式の御像が据えられていた。 巨大な石の身体。 優に三メートルを超える高さ。 その表面には、複雑な紋様が刻まれている。 古代の文字、幾何学的な図形、見たこともない記号。 それらが、まるで生きているかのように、淡い光を帯びていた。 そして、胸のあたりに、円形の窪みがあった。 その窪みだけが磨かれたように滑らかで、ドクン、ドクン、と、心臓めいた淡い脈動を刻んでいる。 朝日の反射のせいか、御像が呼吸しているように見えた。 レオンは、その御像を見上げ、顎をわずかに引いた。(……浄化だけに、こんな大袈裟なものを) レオンは口の端を上げ、虚勢で鼻を鳴らした。 反面、異様な光景に、背筋がぞくりと冷え、心臓が妙に早く打っていた。『あれ、王様……。なんか変な感じがする』 カヤの声が、心の奥で響いた。 いつもより小さく聞こえる。(……俺もだ) レオンは心の中で答えた。 けれど、もう引き返せない。 民衆の視線が、四方八方から刺さる。 好意も、値踏みも、まだ疑いを解かない目も、そこにあった。 オズ
―――神殿 礼拝堂――― セレスは、いつものように礼拝堂で祈りを捧げていた。 朝の光が、ステンドグラスを通して差し込み、床に色とりどりの模様を描いている。 その光を纏い、慈恵神の像が、優しく微笑んでいた。 セレスは跪き、目を閉じる。 両手を胸の前で組み、静かに祈りを唱え始めた。「慈恵神よ……我が国と、民を、お守りください」 その声は、いつもと同じだった。 穏やかで優しく、祈りに満ちていた。 いつものように、最後の結び句を続ける。「——そして、創造神アーク・ディア=カヤよ……どうか、我らの世界をお見放しにならないでください」 瞬間——空気が、変わった。 セレスは目を開けた。『何かが違う』 いつもなら、この祈りを唱えた後は、心が穏やかになる。 静かな安らぎが、胸に満ちる。 けれど今日は明らかに違った。 冷たい。 まるで何かが、この場所を見ているような。 セレスは息を呑んだ。 礼拝堂の空気が、わずかに重くなっている。 いや、重いというより、張り詰めている。 まるで、弦が限界まで引かれているような感覚。「……何……?」 セレスは小さく呟いた。 慈恵神の像を見上げる。 その優しい表情は、いつもと変わらない。 それなのに、何かが違う。 セレスは立ち上がり、礼拝堂を見回した。 物音すらも無く、誰もいない。 静かだ。 けれど、その静けさが、妙に不自然だった。 まるで、誰かが息を潜めているような―― セレスは、組んだ指先に無意識に力をこめた。(今日の儀式……) セ
―――神殿 礼拝堂――― セレスは祈りを終え、ゆっくりと目を開けた。 そして、振り返った。 レオンは彼女を見つめていた。 その目には、明らかな動揺が浮かんでいた。 彼の瞳孔がふっと開き、唇がわずかに震えた。「今……創造神カヤ、と?」 レオンの声は、いつもより少し高かった。「はい、古い伝承ではありますが。この世界を創った神の名だと言われています」 セレスは静かに答える。 その声には、何の疑いもない。 レオンは「そうか」と返そうとしたが、言葉が喉に引っかかった。 指先が、微かに震える。 その時—— シグルがすっと歩み出て、穏やかに微笑むような表情で、話し始めた。「創造神アーク・ディア=カヤですか。……今は、ほとんど忘れられた伝承ですね。私もその伝承が幼少のころから大好きでして、よくその資料を読み漁ったものです」 とセレスに笑顔を向ける。「そして、今のは古い時代に残る『結び句』ですね。慈恵神への祈りに、創世の名を添える——大昔は、そういう祈り方もあったと文献で読みました」 セレスが、声をひそめて目を丸くした。「まぁ、シグル様。とてもお詳しいのですね」「つい嬉しくなってしまいまして。お二人の会話に割り込んだ非礼、お許しください」 シグルは礼儀正しく一礼し、元の位置へ下がる。 そして下がり際、レオンにだけ——表情は崩さず、声量だけを落とした。「……陛下。伝承の話として受け取りましょう。ここは神殿です」 淡々とした声音だが、目の奥には冷たい緊張が張りつめていた。(神殿がその名に触れた。まずい。こちらの弱みになるかもしれない) レオンは一瞬だけ視線を伏せ、息を飲み込んだ。「…&helli
―――神殿 炊き出し場――― 炊き出し場では、貧しい民衆に温かい食事が配られていた。 大きな鍋から湯気が立ち上り、その匂いが空腹の民衆を引き寄せる。 列を作る民衆の顔には疲労と、束の間の安堵が混ざっていた。 ここでも、神官たちがレオンを遠巻きに見ていた。 その視線は、まるで珍しい獣を観察するかのように、好奇と警戒が混ざったものだった。 レオンはその視線を感じ取り、少し肩が強張った。 だが、動じる姿を見せまいと、気丈に振る舞っていた。 シグルは穏やかな表情を見せつつも、神官の動きや民衆の反応を警戒していた。 セレス自らが配膳を手伝い、一人一人に笑顔で食事を手渡していく。 その動作は慣れたもので、民衆も彼女に笑顔を返す。 それは、彼女と民との信頼の証だった。「セレス様、ありがとうございます」 ある若い母親が、深く頭を下げた。「いいえ。どうか、温かいうちに召し上がってください」 セレスは優しく微笑み、その手で母親の手を包み込むように食事を渡した。「聖女様……なんとお優しい……」 老婆が涙を浮かべながら、セレスに手を合わせた。「神の慈愛は、すべての人に等しく注がれます。どうか、お身体を大切になさってください」 セレスは、一人一人に丁寧に言葉をかけていた。 声音は温かく、民衆の心に染み入るようだった。(これが……神殿――聖女としての役目なのか) レオンはその姿を見て、心の中で呟いた。 彼の目が、セレスの動きを追う。 彼女は訪れる人々に言葉をかけ、その手は決して急がない。 まるで、民衆一人一人が大切な存在であるかのような振る舞いだった。 そしてレオンは、列を作る民衆の姿を間近で見た。 痩せ細った体、ぼろぼろの服、疲れ切った目。(これが……俺の国の民なのか)